20220709_sat

SNS。昨日の事件があって、ちょうど明日が参院選投票日ということもあって、自分の考えを発信する人たちがいる。

自分が振り返る時のためだろうか。こうした個の声がSNSという空間で個別に発信され、空間の中である力になって、社会を変えていくのかもしれない。

SNS以前はどうだったんだろう?

つまり、個人のつぶやきが空間で自動濃縮しなかった頃は、社会が変わる過程に、個の言葉は状況にどう機能し、その機能は、状況の進展と共にどう展開していったのだろう。そして、語られない想いは、社会の中でどう濃縮され、発現していったのだろう。

怒りも、言葉に収まらない想いも在る。それに言葉をあてはめて、その時の、と条件付きで発し続けることなく、あの時はこう考えたと、機会があれば話す程度で過ごしてきた。東日本大震災の時もそうだった。それでも良いと思う。無理に発することはなく、発することで、世界に居場所が約束されるわけでもない。

ところで、SNS以前、社会の変化に、語られない個人の想いは、どう機能したのか。

サクラの梢

遅めの買物。18時近くなって、家を出る。今日は美博の前を通る。車に気を使わなくて良いから。美博に差し掛かる頃、桜の木立に風がわたる。葉を揺らす音に、一瞬、自分が戻ってきた。これだ。これで良い。自分に本当に久しぶりに自分が戻ってきた。そんな感覚の片鱗。

MORI.Takashi

ウクライナ

東北の震災と福島の原発事故。自分にとって、その時以来の無力感と関与への期待の入り混じった精神状態にある。今も。ウクライナは東北以上の隔りがある上、言葉の壁と、自分との間に介在する情報の編集量が違う。たぶん。

何故、ロシアとの対話が成り立たないのだろう。砲撃の意思決定は一体どんな人が行っているんだろう。人が言動の判断をする上で、何に依拠しているかが、ここに至る状況へと運んでいるなら、そこが変わらない限り、これからの状況は変わらないんじゃないか。互いに。互いとは、ロシアとウクライナとそれ以外と。

少しでも余裕のある方が、少しでも俯瞰して、聴き、譲り、伝え、判断する。それが出来るのは、誰か? どちらかでなくて、誰か? 今変わらない相手も、伝え続けて、やがて変わるなら、さらに状況は変わっていくんじゃないか。甘いか?

甘いと言うか? 戦場の生活者からのビデオメッセージを観た。憎しみと恐怖を隠さず、それでも戦っている兵士をも思いやり、人間としての尊厳を失わないようにと危惧する。自身の精神を守るために、感情をも殺しつつあるような、凄まじい環境の中で、それを言葉にして、かつ英語にして語る力。そうして自身を支えているんだと分かる。そこから、状況を推し量る。

翻って自分。自国のことをどこまで思っているか。守べきものに、気づいているか。

MORI.Takashi

いつの間にか、受け取るだけになっている。だから心底楽しくない。

昨夜、Tさんと久しぶりに話した。

同じ歳の彼と話していると、自分の輪郭が浮かび上がってくる。

反面教師に思えるところもある。

年齢を無条件に諦めの理由にしているところ。

古い常識を無意識無批判に自分の価値観に取り込んだままのところ。

しかし、今の僕にはない類のバイタリティがあった。

やりたいことがある。だから今一番欲しいのは時間だという。

自分の経験に基づいて、共感し、意見し、提案する。

そこは、むしろ信頼して対話できるところ。

彼に向かって、その場の流れに乗って話をする自分の言葉を、自分が聞いていた。

聞いている彼の反応を見ている自分がいた。

そのことが、ここ最近の中では、とてもとても貴重に思えた。

自分が今、何を感じて、何を心に抱えているのか。それが垣間見えたからだ。

彼に向かって、というより自分にも語る言葉に、じわりと刺激を受けた。

そんな夜だった。

心に静かに力が蓄えられた。

 

僕が関心があるのは、自分だ。けれど、作用点は社会。今の社会に働きかけたい。変化させたい。それは、子供達のために。母達、高齢の弱者のために。理不尽を無くしたい。意味のない無駄な慣習は捨て、歴史は捨てない。大切なものは関係性の中で育む。

 

そうした想いが、沸々と沸き起こってきた。

そして、今日、減薬期間が終わり、服薬を終えた。1ヶ月後に効果検証して、良好であれば、およそ1年間の診療を終える。