湯水のようには湧かないけれど

 茂木さんのブログを読むと、勇気付けられるというか、少なからずこみ上げるものを感じる。恐らく、自分を肯定できるからだろう。それはきっと、悪意の無い、文字通りhopeful monsterだからなんだろう。

 仕事時間も残りが見えてきた頃、行き詰った身体をほぐして、外気を吸いたくなった。エレベーターで階下に降り、土佐堀川の川端に立ってみる。高速道路の橋脚に、魚が藻を食みに群れている姿が見えた。秋の夕方の陽の光を浴びて、側面が水面直下でキラキラしていた。
 帰り、堤防の階段を降りていると、横にあった花壇に目が止まる。花が咲いているけれど、明らかに水が不足して弱々しく萎えている。葉は枯れ始めた部分もある。管理がされていない。そう無意識に言葉がよぎる。 しかし、それは構造的な問題を既に孕んでいる事柄だと、直ちに思い直した。
 管理されていないのだけれど、誰がそうしていないのかというと、その場所を管理し、その花壇を設置した人の責任下でのことだ。そういう論理で認識されるのが、今、極々一般的だ。しかし、この構図は、社会的な機能(役割)を分担された形になっていて”花壇の管理”という作業が切り離され、それが仕事となって管理する者のすべきこととなってしまっているのが現状だ。これは極めて現代的であって、当たり前だと誰もが思うだろう。しかし、萎えて枯れ始めた花という事実と、それを目にするその場所の通行者の感じる心象?はどうだろう。その場所に花壇が設置された意味は、もはやそこにはなく、歩く人もそのことには関わりがない。花壇が設置されたことの意味は、花壇が設置されると霧消してしまうわけだ。? どこかで聞いたフレーズ。ここでは、そちらへ脱線することなく話を進めたい。
 管理することが、花壇の設置の意味目的から切り離されたことは、例えば、花壇の必然性という文脈を通してみると、関連がないとしか言えない。そうなれば、つまりは花壇の設置は、花壇や設置場所や愛でる筈の人達から切り離された管理業務を生み、それが全くそれまではなかった(管理)業務であって、花壇の設置がその直後から、設置目的から乖離しながら、管理業務だけが永続していくという状況を生むことにつながっていく。そういう構図は、都市化した社会では実は至る所にあるのではないか。
 それを今、設置する権利を持つ側から、是正するべく、市民参加等の言葉に代表されるように、管理と設置目的とを接続した形に仕立てようとしているのが現状ではないか。しかし、現段階ではまだ、永続性に至る辻褄が合っていないままではないかと思われる。それは、依存体質の”地元”に対して、先行して提唱し始めた行政の説明力の不足もあって、構図が根本的に変わっていないことに一因があるのではないか。花と緑のまちづくりと呼ばれる流れも、根本では同じ匂いがするがどうだろう。
 管理が切り離されていることは、即ち、機能分化(役割分担)という現代の都市社会的な発想と姿勢に根本的病巣を認められないだろうか。管理は必然性と裏腹ではないか。まして特定の場所や個別の課題に由来する事柄であれば、管理は結果であって、先にあるのは課題解決や発案のような事への動機ではないか。実は、”景観”に関する事柄も同じことが言えるのだが、別の機会に譲ろう。
 切り離された管理は、管理の意味目的とセットである間は成立し得る。しかし、経時的に意味目的が変質したり、そのものが希薄化してその場所やそこに何らかの関わりを持つ人に付帯し得なくなった時、管理のみが宙に浮く。そうすると、花は枯れていく。そういうことなのではないか。

 まがりなりにも「計画」と名の付く取り決めに関わるのであれば、管理は必然と意味目的に接続したまま取り扱うことが望ましい。また、管理を語るのではなく、意味目的を語るべきであり、その達成に必要な作業の一つが管理と呼ばれるという認識が必要ではないか。だから、先人達は祭りを行ってきたし、作業唄を歌ったりもしたではないか。管理は、管理という作業ではない。何かを達成するためにするのだ。