ウクライナ

東北の震災と福島の原発事故。自分にとって、その時以来の無力感と関与への期待の入り混じった精神状態にある。今も。ウクライナは東北以上の隔りがある上、言葉の壁と、自分との間に介在する情報の編集量が違う。たぶん。

何故、ロシアとの対話が成り立たないのだろう。砲撃の意思決定は一体どんな人が行っているんだろう。人が言動の判断をする上で、何に依拠しているかが、ここに至る状況へと運んでいるなら、そこが変わらない限り、これからの状況は変わらないんじゃないか。互いに。互いとは、ロシアとウクライナとそれ以外と。

少しでも余裕のある方が、少しでも俯瞰して、聴き、譲り、伝え、判断する。それが出来るのは、誰か? どちらかでなくて、誰か? 今変わらない相手も、伝え続けて、やがて変わるなら、さらに状況は変わっていくんじゃないか。甘いか?

甘いと言うか? 戦場の生活者からのビデオメッセージを観た。憎しみと恐怖を隠さず、それでも戦っている兵士をも思いやり、人間としての尊厳を失わないようにと危惧する。自身の精神を守るために、感情をも殺しつつあるような、凄まじい環境の中で、それを言葉にして、かつ英語にして語る力。そうして自身を支えているんだと分かる。そこから、状況を推し量る。

翻って自分。自国のことをどこまで思っているか。守べきものに、気づいているか。

MORI.Takashi