どスランプ! タカシちゃん

まあ、どうあがいても何もする気がしない。そもそも、あがいてもいない。今までにない、危機的状況。実は、危機感すら覚えていない。とにかく感情ですら動かない。とてもシンドイ。寝てもシンドイ。唯一、子供達の前では、奮い立つことができる。
こんなこと、Tweetなんてできない。今の設定では、Facebookにも筒抜けだし。得るものもあるけれど、窮屈と感じることの方が勝ると、手も出ない。
まだ選択の余裕はあるから、今のうちに心療内科を受診するのが良いかもしれない。と、思いつつ、今日も遅くなってしまったし。ダラダラと、過ぎて行く気がする。
考えられるのは、子供達相手に生活を続けていると、肉体的に自分を出し切らない状態が続いて、会社でも身体を動かさないままほぼ日中を強制的に過ごしていることもあって、中途半端な持て余し方を常態としてしまって、とても不健全なのかもしれない。かと言って、自分が何をしたいのか、ハッキリと言える状態でもなくなってきて、まったくの悪循環だと知りつつ、脱却の意欲さえ湧かない状態に落ち込んで、ますます身動きがとれなくなってきている。というのが、精一杯の自己説明。本当は、どうなんだろう。
この精神的に不健康な仕事を、肉体的に静止状態を続けながら、ただ収入のために継続しなければならないということに至って、あの時から、ひょっとすると無意識にトーンダウンしてきてしまったのかもしれない。
こういう時は、何かに打ち込んで、小さくても達成感を得ることが、抜け出す策と思ってはみても、一歩が踏み出せない。誰かとの対話の中で自分の状態が顕在化して奮起する契機となるとも思うのだけれど、こんな状態の僕と根気よく対話してくれる相手など、どこにもいない。
リアリティの感じられない状態で、僕はかつて枕元の目覚まし時計を丹念に触り、駅の階段を周りの迷惑を顧みずに、一段ずつゆっくりと足の裏に踏み面からの反作用を感じながら上り下りもした。身体感覚を誇張して感じ取ることで、生のリアリティを、その時、その場所に同時的に存在する感覚を、疑いようのないものとして得ようとした。
あれから、20年近く経ち、僕はあまり変わらない場所に立ち尽くしていたのかもしれない。自分の存在の不確かさと、確実に在ると思える外界=世界との関係を確かなものとして取り結べない者という不完全さを、ずっとずっと感じていたことに、こういう時、つまり弱まった状態にある時には、まざまざと再び思い知らされる。
マズローの言った承認の段階を、僕はうまく充分に経ていないのだろう。だから何だ。例え、自らのみの力量だけで勝ち取らなくとも、必ず、”そう”なっているだろうことは、朧げであっても、運などとは異なる、確信にちかいこととして感じるから。けれど、そのことに安住しないにせよ、今のこの状態は、決して安らかではなく、虚無の海を漂う長大な海藻=昆布の気分だ。八方塞がりの状況で、意思をどこにつなげば、少しは今の生をリアルに感じられるか。そのことのヒントだけでもいい、誰か教えてくれないだろうか。あるいは、その啓示を与えてくれないか。もう藁をもすがる思いだ。