機能分化した社会は

今や当たり前というわけだ。まったく理不尽な法治社会なわけだけれど、お巡りさんという役割には感謝する事多々ありつつ、説明しきれない彼らの職務上の主張ということに、彼ら自身に対してと言うより、彼らが社会に職業として存在していること、ひいては今の社会システム、もっと言えば、それを成り立たせている個々人の在り方に対して、疑問や違和感を抱くことが、このところ度々ある。お巡りさんを例に出したのは、先日理不尽な駐車違反に対する説明と判断が異なるお巡りさんで異なるということがわかったことと、説明根拠を法律に求めつつ、現場や状況を論理的に判断に反映させられないことに対して、法治社会ということの本質を、それを遵守する機能を担わされたお巡りさんが充分に認識していないことを感じたからだ。
 本質的な疑問と何とかしたいと思う点は、この機能分化したことに何の疑問も異議も感じないままそれを温存して行くことを疑わない個人ばかりであることだ。農業もまた、職業として扱われ、農政の中でも生業として経済原理の上に乗せられた形で取り沙汰されている。そして農と言葉を代えてようやく、環境と文化を包括させている。しかし、言葉を代えることで、次元あるいはフェーズが変わってしまうことに、もっと注意を払うべきではないだろうか。本来の意思とは別に、セグメント化してしまうことに通じてしまうからだ。政策が、機能分化した社会に立って、ある側面のみから組立てられていては、結局、現代社会がそうであるように、問題に対処するというシンプルな姿勢によって、重箱の隅をつつくようなルールだらけの社会となってしまいかねない。運用に幅を持たせることを、不公平と結びつける卑近さにいちいち対応していくより、良いと思う運用例が提示されれば、それを応用的に取り入れるくらいの度量の広さを持って行政や政治にはあたってもらいたいものだ。
 話を戻すと、機能分化した社会に対して、少なくとも、全体を良くするという方向性と意思を持って、様々な制度や法と言った既存のルールを超越した視点も備えつつ、発信していく姿勢は、社会のあらゆる人に備えていてほしいと思う。