高度成長期初期、あるいはそれ以前の日本の社会と今が比較されることがある。当時の写真に写った人達は、ボロボロの服を着ているが、皆笑っているという。比して今、不安ばかり感じる社会。何が違うか?色々あるだろう。その中でもコアは何か。欠乏。埋めようと切望する何か。その存在ではないか。今の社会が抱える不安は、欠乏に起源していない。むしろ有り余る事物の果てに罹患したようなものではないか。

震災の後がそうだった。一瞬で失った。その失い方。失う前後の落差。その特質さ故に尚更、大きな欠乏が社会に生じた。そして、コミュニティが生まれ、活きづいた。ボロボロになった街。生活。そこで、悲嘆に暮れるだけでなく、やがて皆、笑い合うようになった。笑えなくなった人も居るが。けれど、欠乏が、それを埋めようと、乗り越えようとする意思が、人を地域社会につなぐ糊のような機能を果たした。きっとそうだ。根は同じように思う。そういえば、直後の被災地調査で、焼け野原になった商店街跡を歩いていたとき、おばあさんが通りかかった見ず知らずの僕に、こう語った。人生で2度も同じ風景を見ることになるとは思わなかった、と。つまり、戦災と震災。あれから16年が経った。彼女は今、元気に暮らしているだろうか。