没我

自分が、何をしたいか。そう問われると、身動きがとれなくなる。そうではなく、自分は、”それ”がどうあるべきか、どうあると良い、と考え、感じているか。と、問う。そうすれば、少なくとも、向かいたくない方向ははっきりするかもしれない。それが分かれば、それ以外の方向にとりあえず一歩踏み出してみることができる。そして、何かが違えば、踏み出した一歩を戻せば良い。実は、そんなものなのだ。
あなたは、何をしたいのか? と問う人を、僕は無責任だと思う。けれど、その呪文で金縛りに遭う自分は、とても残念だと思う。金縛りに遭う自分は、自由ではないからだ。その問いは、密室で「誰だ、今おならをしたのは?」と、真っ先に問いを投げる人に似ている。その人は自分がしたことを棚に上げているかもしれない。
自分が、”それ”がどうあるべきか、どうあると良い、と考えるか。それなら、歩み出せる。何かに近づける。その時、契機は自分の想いであるけれど、自分を認めてほしいとか、自分の成果を評価してもらいたいとか、結果への自分の貢献を、他者に認めてもらいたいという意識と姿勢を示せば、歩み出せたとしても、近づけはしない。自分が見定めた、在るべき、在ると良い、そこへ至ったとすれば、そのことで充分であって、自分の貢献は他者のみぞ知るもので、自らは決して評価できない。だからこそ、近づくための、自分の出来ることに、邁進するだけだ。結果、それは没我となる。きっと。それを至福と感じられるか。そうなれば、随分と楽になる。