カンニングで逮捕って

大学入試のカンニング事件が報道されている。
昨夜、新聞1面の文字に、違和感を覚えた僕は、うちの奥さんにつぶやいてしまった。
「これって、逮捕できるんだ?」
カンニングなんだったら、大学が入学許可しなきゃいいだけじゃないのか?」
どんな罪状で逮捕できるんだ? それを見つける方が苦労しなかっただろうか? 
と、続けて思った。
それにしても、当事者の特定に焦点が当たっている。いわゆる、犯人探し。
これって、メディア側の意思じゃないだろうか。
でも、違和感の根は、もっと別のところにある気がしていた。
今日、茂木さんのブログ
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2011/03/post-6403.html)を読んで、
まったく同感だった。
大学も含めて、学校というところが、特定の年齢層の児童・学生が集まった特殊な社会(コミュニティ)であることは、誰も認識していないように思う。
学校とは、こういうことをしなければならない。そのことが、外部から決められた形になってしまったままじゃないだろうか。
目の前の児童・学生、地域や日本の社会の今。そこから、必要なものを改めて地に足つけて考えて、再構築していく。それを試行錯誤していく。そういうことが、当たり前にできにくい状況がある。
そのことに気づかない人が、社会の多勢を占めている。いや、あたかもそうであるかのように、錯覚させられているかもしれない。それは、一番声高のメディアが、気づかないでいるからではないか。気づいていても、指摘できていないからではないか。
やはり、既成のメディアからは、僕たちは離れた方がいいのかもしれない。自分たちで、情報を受発信して、地に足つけて再構築していきたい。その覚悟を、多くの人と共有したい。
だから、昨日彼女が教えてくれた、Third Placeが必要なのかもしれない。一つではなく、あちらこちらに。
ならば、一つを作ってみる。それもいい。けれど、あちらこちらに発生する、そのための仕掛けをこそ、作るべきじゃないだろうか。

タカシ



朝。車窓から六甲山系中腹のかつての草地が見えた。昔、入会地だったらしい。研究者によれば、そのかつての機能からみると、居住地区からの距離が遠いそうだ。今は建物が建ち並んだ街並みが、山麓から広がっている。早春にはまだ少し早い朝の陽ざしに、枯れた明るさで山並の中、ひときわ目立つ草地の名残。
かつては山麓にも、この草地と結びついた暮らしがあったはずだ。そちら側から見た、地域の変貌、世界の変化は、きっと、今までに見聞きして知ったのとは違ったドラマなんじゃないだろうか。近代化とか都市化とか、そんなタームの型にはまらない、物語があるに違いない。知りたい。発掘したい。